こんにちは、バズバレッツの雷人です。
最近ブログもYouTubeも停滞気味です。ステイホームで読んでいただける機会だとは思っているのですが、プログラミング学習に集中しています。
空いた時間を見つけてコツコツ更新していきます。
さて今日は昨日投稿した「社会人になってもアルティメットを続ける理由とその魅力」の中でも少し触れた、2010年夏にバズバレッツの世界の松野さんがなぜ学生選手権に出向いてまでスカウトをしていたのかについて先輩方から聞いている情報をお伝えしていきます。
今日の記事は特に何か知識がどうのこうのという記事ではないので、そんなことがあったんだという程度にしていただければと思います。
先輩方から伝わっている話なので時系列や事実と異なる場合がございますのでご了承ください。
2010年夏、BuzzBulletsリクルートに注力した理由と背景
時を遡ること10年前の夏。
前記事でも書いたようにバズバレッツはスカウトに力を入れていました。
チームのエースである松野氏を大学選手権の会場に送り込むほど注力していました。
その裏側の話を少しだけ。
Buzzがスカウトに注力した理由
この年にバズバレッツがスカウトに注力した理由は「人出不足」です。
2010年はチェコのプラハでクラブ選手権が行われた年で、その大会にバズバレッツはわずか14、5人程度で参戦していました。
結果は3位と健闘したものの、人数が少なく一週間の長い大会を戦い抜くにはハードな状況でした。
バズバレッツとしては今後のクラブ存続のためにも人数を増やす必要がありました。
2010WU23UC日本代表決勝で取ったもん負け
そのプラハの奇跡と呼ばれた大会から程なくして行われた大会が、「WU23UC」です。
この大会はU-23の初めての大会で日本代表もメン部門とウィメン部門で参戦しました。
大会の結果は男女ともに決勝まで連勝を重ね、決勝戦でダブルゲームポイントのオフェンススタートでブレイクされて負けるという結果に終わりました。(男女ともにです笑)
この決勝戦の裏側でバズバレッツの一員は「クラブ選手権の慰労会」を行っていたそうです。
今のように動画配信などはなかったため、オンタイムではなかったかと思いますがその慰労会の最中に「U-23準優勝」というニュースは伝わったとのことです。
そこでバズバレッツ御一行は「チャーーーンス!!!」と思ったそうです。
世界大会の楽しさや悔しさを誰よりも理解しているからこそ、この決勝戦取ったもん負けを経験したU-23の選手は狙い目だと考えたのでしょう。
2010年大学選手権本戦会場に現れたサングラスのお兄さん
WU23UCが行われた一ヶ月後に日本で大学選手権が行われていました。
各チーム大学日本一を目標に戦う中、サングラスのお兄さん(松野さん)がウロウロしながら選手に声をかけていました。
そして私もお声掛け頂き、その後人生で一番悩む選択肢となった「日本のA代表を目指す」という選択肢を与えられました。
2012WUGCに向けて
当時のA代表メンバー選考は現在の選考方法とは違い、多くの国が前年の国内大会優勝チームを中心に補足メンバーを集めるという方式で代表メンバーが決まっていました。
そういった経緯もあり2012年のA代表を目指すにはバズバレッツに入ることが一番の近道ということになっていました。(バズバレッツにいるからといって確定ということではなかったですが)
2010年のクラブ選手権を終えたバズバレッツの次のチームの目標は2012WUGCということになり、そこに対して人数を増やしておきたいという狙いがあったのです。
2011年春、88世代大量加入
2010WU23UCの悔しさや、世界の松野さん直々にスカウトした効果もあってかその翌年バズバレッツには私を含め6人の88世代が入部しました。
U-23メンバーから大阪体育大学の私と古澤、日本体育大学の草野と仲本の4人が加入し、さらに南紀の弾丸和歌山大学から芝、信州の侍こと信州大学からガヤちゃんの2人が加入、合計6人の大量加入となりました。
スカウト大成功です。
こうして2011年には総員20人を超えるチームとなり、2010年バズバレッツのスカウティング活動は無事成功?に終わりました。
というのが2010年にバズバレッツがスカウト活動に注力していた理由と背景でした。
ちなみに2010WU23UC出場した同期は20人中12人が2016WUGCの各ディビジョンで日本代表になりましたとさ。
おしまい。